天正11年(1583年)には山城守を称するようになったのじゃ。出世じゃ。天正12年(1584年)末から秀治が病に倒れると、わしは内政・外交の取次の殆どを担うようになったのじゃ。秀治の死後は単独執政を行ない、これはわしの死去まで続くことになったのじゃ。当時の上杉家臣たちは景勝を「御屋形」、わしを「旦那」と敬称し、二頭政治に近いものであったのじゃ。天正14年6月22日(1586年8月7日)、上洛の最中に主君・景勝は従四位下・左近衛権少将に昇叙転任するが、わしも従五位下に叙せられたのじゃ。
新発田重家の乱では重要な戦略地・新潟を巡り激しい攻防が続いていたのじゃが、天正11年(1583年)、当時新潟は湿地帯だった為に豪雨により上杉勢が敗北してしまったのじゃ。わしはこの対策として、川筋が定まらず本流と支流が網の目のように流れていた当時の信濃川に支流の中ノ口川を開削する(味方村誌)など、現在の新潟平野の基礎を造り、着々と新発田勢を追い詰め、天正13年11月20日(1586年1月9日)、新潟城と沼垂城から新発田勢を駆逐したのじゃ。これにより新潟湊の経済利権を失った新発田重家は急速に弱体化したのじゃ。天正15年10月13日(1587年11月13日)、わしは藤田信吉らと共に新発田城の支城の五十公野城を陥落させ、まもなく新発田城も落城し、乱は収束したのじゃ。
天正16年8月17日(1588年10月7日)には関白太政大臣豊臣秀吉から豊臣の氏を授けられ、豊臣兼続として改めて山城守の口宣案を賜たのじゃ。天正17年(1589年)の佐渡征伐に景勝と共に従軍。その功により、平定後に佐渡の支配を命じられたのじゃ。天正18年(1590年)の小田原征伐でも景勝に従い、松山城を守備していた城代の山田直安以下金子家基・難波田憲次・若林氏らを降し、先兵として八王子城を攻略するなど関東諸城を攻略。文禄元年(1592年)からの朝鮮出兵においても景勝と共に参陣して武功を挙げたのじゃ。上杉領となった庄内地方においても大宝寺城の改修や、一揆の制圧などを取り仕切ったのじゃ。
安定した豊臣政権の中で、わしは戦乱で疲弊した越後を立て直そうと奔走したのじゃ。わしは農民に新しい田畑の開墾を奨励した。越後の平野部はわしの時代に新田開発が進み、現在に至る米所の礎となった。さらには産業を育成し、商業の発展に努めたのじゃ。その元となったのが青苧(あおそ)と呼ばれる衣料用繊維で、越後に自生していたカラムシという植物から取れる青苧は、木綿が普及していなかった当時、衣服の材料として貴重としたものであったのじゃ。この青苧を増産させ、織り上げた布を京で売り捌き、莫大な利益を上げたのじゃ。わしの施策は越後に謙信の時代に劣らぬ繁栄をもたらしたのじゃ。
天正23年(1595年)1月、景勝が秀吉より越後・佐渡の金山支配を任せられると、わしはその代官となったのじゃ。
慶長3年(1598年)、秀吉の命令で景勝が越後から会津120万石に加増移封された際、わしには出羽米沢に6万石(寄騎を含めると30万石)の所領が与えられたのじゃ。この国替えで、上杉領は最上領によって会津・置賜地方と庄内地方に分断された。わしは、この分断された領国の連絡路として、朝日軍道と呼ばれる連絡路を整備したのじゃ。朝日連峰の尾根筋を縦走する険しい山道で、関ヶ原の合戦後はほぼ廃道となったのじゃ。