2009年09月25日

週刊文春2009年10月1日号のブログぞ。

昨日発売の週刊文春の記事が掲載されたブログを見つけたのじゃ。
ここじゃ。
http://blog.goo.ne.jp/bunshundai2dan/
よく読むがよい。
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2009年09月24日

週刊文春に第2弾批判記事!

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週刊文春2009年10月1日号にまたまた批判記事が掲載されおった。
今日発売されたのでさっそく読んでみたが、
どうやら薬事法違反だと認めているようだ。
世も末じゃのう。

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2009年08月29日

週刊文春2009年8月6日号のブログぞ。

7月30日発売の週刊文春の記事が掲載されたブログを見つけたのじゃ。
ここじゃ。
http://blog.goo.ne.jp/maru194194
よく読むがよい。
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2009年07月30日

週刊文春に批判記事!

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週刊文春2009年8月6日号に批判記事が掲載されおった。
今日さっそく読んでみたが、
過矯正になる患者が続出しているそうじゃ。
ここはどうなっておるのじゃ?
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2008年08月03日

黄色いレーザーの実態は「ブルーライン」?

興奮冷めやらぬ今日このごろ。やっぱり気になるので書くのじゃ。
偽装はこれだけではないそうじゃ。
「品川エディション」で使われるエキシマレーザーの本名は「ブルーライン」というのだそうじゃ。エキシマレーザーというのはレーシックに興味がある者なら説明はいらんじゃろ。
機械に黄色いカッティングシートが貼られ、「SHINAGAWA EDITION」という文字が貼られてあり、出勤した勤務医は皆唖然としたそうじゃ。
「イエローライン」じゃったら問題なかったかも?じゃ。

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2008年08月02日

その名も「品川エディション」

驚きも覚めやらぬ今日の午後。やっぱり気になるので書こうと思う。
その名も「品川エディション」。3つのコースで最高級とされておるが、元職員によると「最高級の品川エディションとは、全くの名ばかりなんです」とのことだそうじゃ。
レーシックではレーザーを照射する前にフラップというものをつくることは知っておったのじゃが、そのフラップを作る機械は一段階劣る「スーパーイントラレーシック」と同じ機械を使っとるそうじゃ。
そんでウェブサイトに「誤差調整マイクロシステム」とか、「コンディションメーター」を特別搭載などと謳っておるが、「誤差調整」なんて機械に標準で装備された機能であり、しかも「コンディションメーター」はただの温湿度計なんだそうじゃ。
なんじゃこりゃ。
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2008年08月01日

週刊新潮2008年8月7日号のブログぞ。

週刊新潮2008年8月7日号の記事についての詳しいブログがあったのじゃ。
http://blog.goo.ne.jp/lasik_shinagawakinshi
ここじゃ。恐ろしいのう。
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2008年07月31日

わしは週刊新潮の記事におったまげたわ。

わしはな、いわゆるレーシックに興味があるのじゃ。
だからいろんなクリニックのパンフレットを取り寄せて比較検討してきたのじゃが、やっぱり品川近視クリニックがいいのかなと思っとったところじゃ。なんせ症例数が桁外れに多いからの。
ところがじゃ、今日、週刊新潮8月7日号の記事を読んでびっくりしてしもうた。
かいつまんで言うと、一般の機械を黄色く塗ってだな、それをあたかも優秀な機械だからと費用を少し高めに設定して、患者にはこの黄色いレーザーで治療を受けさせているというのじゃ。
色が黄色いだけで5万円も高くとっているのじゃ。
おかしくないか?
わしはな、いかさまは大嫌いじゃからの。
他のクリニックを探すことにしたのじゃ。

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2008年07月30日

わしの人物・逸話じゃ。

江戸時代後期の講談や明治時代以降の講釈本などを中心に、わしは謙信に才気と美貌を見出され、小姓・近習として近侍しその寵愛深い衆道の相手かつ信頼の篤い近臣であった、との俗説が世間に広く流布し、現代でも時代小説や一般向けの歴史解説本などがこの俗説を「事実」として頻繁に採り上げているのじゃ。 しかし実際には、生前の謙信と兼続の関わりを示す信憑性のある史料は一切確認されておらず、青少年期のわしが謙信に近侍していたか否かは不明であるのじゃ。しかし美貌であったことは事実じゃ。わしが言うのじゃから本当じゃ。
天正8年(1580年)の樋口氏時代の書状は、当時のわしが景勝の配下としてその意思を代行していたことを示すものであるとされて、若年期よりのわしと景勝の関わりを実証し得るものとされておる。
主君である上杉景勝を補佐し、豊臣秀吉から山城守・山形30万石の贈与などの引き抜き行為を幾度も断るなど、忠義に厚い名将として知られておる。秀吉は「直江兼続は天下の仕置きを任せられる男なり」と評している。また、わしについて生前親交があった僧侶は「人というものは利を見て義を聞こうとしないものだ。そんな中で直江公は利を捨て義をとった人だった」と評しておる。わしが言うのも何だが、立派な人物じゃった。
米沢への転封の際に、上杉家は大変な財政難に陥ったが、わしは「人こそ組織の財産なり。みんな来たい者はついてこい」といい、召し放ちなどの現代で言うリストラをしなかったのじゃ。米沢はかつての領国の4分の1の石高の地で、上杉家を待っていたのは厳しい暮らしじゃった。しかし、わしはここで家臣と家族3万人を養おうと、自らは質素な暮らしをしながら、国造りに取り組んだのじゃ。米沢市の郊外には、わしの指示で土地を開いた武士の子孫が今も暮しており、その家の周りには栗や柿そして生垣にはウコギが植えられておる。いずれも食べられる食用の木である。わしは実用的な植物を植えさせることで、人々の暮らしの助けになるよう心を配っていたのじゃ。ホントだよ。
関ヶ原の合戦後、非常時に備え米沢の墓石を格子型にするよう命令したのじゃ。これはわしの発案と伝えられ、墓石の格子に棒を通し並べることで強固な石塀とするものであったのじゃ。今でも米沢の寺社の墓所にはたくさん格子型の墓石が並んでおる。またわしの墓石も同様である。
妻・お船の方との夫婦仲は大変よく、わしは生涯側室を1人ももたなかったのじゃ。ちょっと惜しいのう。
関ヶ原の戦いで中央の戦況が早々に東軍勝利に終わってしまったという事情があるとはいえ、2万近い大軍を率いながら1000名ほどで長谷堂城を守る最上勢に苦戦するなど、軍事能力に関しては疑問が残る(長谷堂城の戦い)。ちょっと苦手じゃ。
南化和尚、西笑承兌などと親交があり、文化人としても知られており、蔵書家で有名でじゃった。わしの蔵書である宋版『史記』『漢書』『後漢書』は、南化和尚から贈られた物であり、いずれも国宝に指定されておる。また日本初の銅活字といわれる『文選』(直江版)の出版や、米沢藩の学問所である禅林寺(後の興譲館、現在の山形県立米沢興譲館高等学校)を創立したのじゃ。
「愛」という字を前立にあしらった兜がわしの所用として米沢市の上杉神社稽照殿に伝わっておる。この「愛」の字については、俗説として「仁愛」や「愛民」の精神に由来するとも言われるが、上杉謙信が毘沙門天の信仰を表した「毘」の字を旗印に使用するなど、当時、神名や仏像を兜や旗などにあしらうことは広く一般に行われていたことから、軍神である「愛染明王」または「愛宕権現」を表したものとの理解が大勢であるのじゃ。また、「愛」の兜についてフジテレビ系番組「トリビアの泉」で過去に紹介されたことがあるのじゃ。
現在、わしが用いた家紋には混乱があり「三つ盛り亀甲に花菱」あるいは「三つ盛り亀甲に三つ葉」などが見られるのじゃ。また旗印も「三つ山」や「雁金」など混乱が見られるのじゃ。
江戸時代の随筆『煙霞綺談』によると、あるとき、わしの家臣(三宝寺勝蔵)が下人(五助)を無礼討ちしたのじゃ。すると、その五助の遺族たちがわしに「あれの粗相は何も無礼討ちにされるほどのものではなかった」と訴え出たのじゃ。わしが調べてみると遺族の訴えの通りじゃったので、わしは家臣に慰謝料を支払うように命じたのじゃ。しかし遺族たちは下人を返せと言って譲らないのじゃ。わしは「死人は生き返らないのだから、慰謝料で納得してくれないか」と言ったのじゃが、遺族たちはあくまでも下人を返せと言い張るのじゃ。するとわしは「よしわかった。下人を返して取らそう。だが、あの世に遣いにやれる者がおらぬゆえ、すまぬがそのほうたちが行ってくれぬか?」と言って遺族3人の首をはね、その首を河原に晒してその横に立て札を立て、そこに「この者どもを使いに出すから死人を返せ 慶長二年二月七日 直江山城守兼続判」と閻魔大王への嘆願書を書いたといわれておるのじゃ。義や温情に厚いわしじゃったが、主筋に無体な要求を繰り返す家臣を捨て置くことは出来なかったというエピソードじゃ。しかしこれは、後世に創作された伝承であると思われる。
『常山紀談』では「大男にて、百人にもすぐれたるもったいにて、学問詩歌の達者、才知武道兼ねたる兵なり。恐らく天下の御仕置にかかり候とも、あだむまじき仁体なり」とあり、それに続いて「長高く容儀骨柄並びなく、弁舌明に殊更大胆なる人なり」とわしを高く評価しておる。(歴史サスペンス劇場で紹介された際には豊臣秀吉154cm、徳川家康157cm、織田信長169cmであるのに対し直江兼続は180cm以上であったとされ、当時の一般的な成人男性よりもはるかに長身であったとされておる)。
御館の乱では謙信の遺言を偽造しているとの説がある。謙信が病気に倒れたときに世話役を務めていた直江景綱の継室(未亡人)と共謀して、遺言を偽造したことが『上杉年譜』に記されておるのじゃ。しかしこの頃のわしは、史料においても正確な行動が明らかではなく、また身分の上でも上田衆出身の小姓の1人に過ぎないのじゃ。
「直江景綱後室と樋口与六、声高に御家督はいよいよ景勝公へ御譲り給はんものと申延べしに、管領(謙信)御言舌止まり給へしかども、御納得あれば、只御首うなずき給ふばかりなり。左右列侯の諸臣ら、ここにおいて邦家安堵の思ひをなす」(『上杉年譜』)
『最上記』によると、長谷堂城の戦いの撤退戦でのわしの采配振りを「古今無双の兵」と評しておる。
秀吉の死後の遺産分配では陪臣の身でありながら、遺命により太刀(備前長船兼光)一振りを拝領して秀吉恩顧の大名並みの厚遇を受けている。
わしの死後、主君を誤らせ石田三成と結んで徳川家康に刃向かい、上杉家を窮地に陥れた奸臣とされていたが、米沢藩第9代藩主の上杉鷹山がわしを手本に藩政改革を行なったことから再評価が高まったのじゃ。
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2008年07月29日

わしの家族じゃ。

お船の方。わしの正室じゃ。
直江景明。わしの長男じゃ。
於松(おまつ)。わしの長女じゃ。
天正13年(1585年) - 慶長10年8月17日(1605年9月29日)
慶長9年(1604年)直江家に養子入りした本多政重(直江勝吉)に嫁ぐが、翌年に没したのじゃ。勝吉には従妹の阿虎がわしの養女となって再度嫁ぐ事になったのじゃ。法名は吉山梅龍心立大姉
娘。わしの次女じゃ。
生年不詳 - 慶長10年1月13日(1605年3月5日)
色部長実に息子・光長の嫁にと請われておるが、結果的に光長には叔母(兼続の実妹)が嫁いだのじゃ。姉の於松に先だって早世したのじゃ。本名は不明だが、木村徳衛は「於梅」の可能性があると指摘しておるのじゃ。法名は雪窓幻春大姉。
阿虎(おとら)。わしの養女じゃ。
生年不詳 - 寛永4年(1627年)6月10日
大国実頼の娘。慶長14年(1609年)、わしの養女として本多政重に嫁いだのじゃ。
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2008年07月28日

わしの死後じゃ。

わしの死後、わしの息子の早世や本多政重(後に加賀藩前田氏家老5万石となった者じゃ。)との養子縁組の解消などが原因で直江家は断絶する事になってしもうたのじゃが、「上杉家の減移封を招いた責任を感じていたため」「高禄の直江家の知行を返上することで少しでも上杉家の財政を助けるため」に意図的にわしが直江家を断絶させたとする説があるのじゃ。
わしが亡くなった際には上杉景勝から銀50枚、徳川秀忠から銀50枚が送られたのじゃ。
わしの死去から18年後の寛永14年(1637年)に妻・船が死去したのじゃ。わしと船が行っていた藩政運営は、わしの右腕として働いていた平林正興に引き継がれたのじゃ。正興はわし亡き後の寛永17年(1640年)に製作された往古御城下絵図に陪臣で唯一「殿」の尊称がついており、別格扱いを受けていた事が証明されておる。正興によってわしの祐筆を務めていた木次左近が郡代に就任している等、米沢藩内での直江派閥である与板組の権力は保持され続けたのじゃ。
上述のとおり、わしと船は直江家菩提寺の徳昌寺に葬られたが、徳昌寺と上杉家菩提寺の林泉寺との間で争いが起こり、敗れた徳昌寺は越後に逃れたのじゃ。 直江夫妻の墓石と位牌は東源寺に移され、後に藩庁の裁定により林泉寺へと再び移された。位牌と遺骨は東源寺に残されたともいわれ、現在でも埋葬地について異説があるのじゃ。分骨が高野山清浄心院に納められておる。なお新潟県長岡市に現存する徳昌寺には、米沢追放時に遺臣によって移されたとするわし夫妻の位牌が祀られておるのじゃ。
当初の法名は達三全智居士じゃったが、100回忌の時に法名が追加されて英貔院殿達三全智居士となったのじゃ。
大正13年(1924年)2月11日、宮内省より従四位を追贈された(なお、改名後の重光としてではなく、兼続に対して追贈)。この経緯から重光ではなく、後世に兼続の名で知られることになったのじゃ。
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2008年07月27日

わしの墓所じゃ。

わしは米沢市の徳昌寺に埋葬されたのじゃ。その後、徳昌寺と林泉寺の間に争い(なぜかは知らん。)が起こり、敗れた徳昌寺が廃絶したため東源寺に改葬されたのじゃ。後に藩庁の裁定により林泉寺に再改葬されたのじゃ。
昭和13年(1938年)4月30日、米沢市丸の内鎮座の松岬神社に配祀されたのじゃ。以後、終戦まで米沢市祭として直江祭を毎年4月30日に執行されるようになったのじゃ。
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2008年07月26日

わしの江戸時代じゃ。

慶長6年(1601年)7月、景勝とともに上洛して家康に謝罪したのじゃ。家康から罪を赦された景勝は出羽米沢30万石へ減移封となり、上杉氏の存続を許されたのじゃ。その後は徳川家に忠誠を誓い、慶長13年1月4日(1608年2月19日)に重光に改名したのじゃ。
わしは新たな土地の開墾を進めるために治水事業に力を入れたのじゃ。米沢城下を流れる最上川上流には3キロメートルにわたって石が積まれ、川の氾濫を治めるために設けられたこの堤は「直江石堤(なおえせきてい)」と呼ばれておる。新田開発に努め、表高30万石に対して内高51万石と言われるまでに開発を進めたのじゃ。また、町を整備し、殖産興業・鉱山の開発を推進するなど米沢藩の藩政の基礎を築いたのじゃ。
上杉家と徳川家の融和を図るなど本多正信とも交流を持ち、慶長14年(1609年)には正信の取り成しで10万石分の役儀が免除されるなど、上杉家に大きく貢献しておる。また、正信の息子政重を一時わしの養子とした時期もあり、政重とは養子縁組が解消されても親交が続いていたのじゃ。
慶長19年(1614年)の大坂の陣においても徳川方として参戦し、鴫野の戦いなどで武功を挙げたのじゃ。
元和5年12月19日(1620年1月23日)、江戸鱗屋敷で病死したのじゃ。享年60であった。
タグ:直江 兼続
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2008年07月25日

わしの関ヶ原の戦いじゃ。

慶長3年8月18日(1598年9月18日)に秀吉殿が死去すると、次の天下人として家康が台頭するようになったのじゃ。三成殿と懇意であったわしは、家康との対立を決意したのじゃ。徳川家との融和を主張した上杉家重臣・藤田信吉を追放し、家康の度重なる上洛要求も拒んで、やがて関ヶ原の戦いの遠因となる会津征伐を引き起こしたのじゃ。
このときに家康を激怒させ、会津遠征を決意させるきっかけとなった直江状の文面は後世の偽作、改ざんの可能性が指摘されているものの、家康の上杉征伐を諌止した豊臣奉行衆の書状には「今度、直江所行、相届かざる儀、ご立腹ご尤もに存じ候」「田舎者に御座候間、不調法故」などとあることから、わしの書状が存在し、それに家康が激怒したことは事実なのじゃ。
景勝・兼続主従は、防御に不向きな若松城に代わり、新しい城(神指城)の築城を始める一方、白河で徳川勢を迎撃する戦略を練っていたのじゃが、三成殿挙兵のため、家康率いる東軍の主力は上杉攻めを中止しおった。わしは東軍の最上義光の領地である山形に総大将として3万人の精鋭を率いて侵攻したのじゃ。最上義光と上杉家は、庄内地方を巡って激しく争った経緯もあり、関係は悪かったのじゃ。さらに、上杉家から見ると、上杉領は最上領により分断されており、最上家から見ると上杉領に囲まれていたのじゃ。当初、東北の東軍諸勢力は最上領に集結し、上杉領に圧力を加えていたが、家康が引き返すと諸大名も自領に兵を引き、最上領の東軍兵力は激減した。義光は危機感を覚え、上杉家へ和議の使者を送りながらも、東軍諸侯に呼びかけ、先制攻撃を図ろうとしていた。義光の動きを察知したわしは、機先を制した。義光は戦力集中の為、一部の支城の放棄を命じたのじゃが畑谷城を守る江口五兵衛などはこの命令を拒否して籠城、上杉軍は激しい抵抗を排除して攻略したのじゃ。その後、同じく志村光安が守る長谷堂城と、里見民部が守る上山城を攻めたのじゃ。500名が守備する上山城攻めには4000名の別働隊があたり、守備側は野戦に出たのじゃ。上杉軍は約8倍の兵力を持ちながら守備側に挟撃され、大混乱の末に多くの武将を失うなど、守備側の激しい抵抗に遭って攻略できず、別働隊は最後までわしの本隊に合流できなかったのじゃ。長谷堂城攻めでは兼続率いる上杉軍本隊が1万8000名という兵力を擁して力攻めを行ったのじゃが、志村光安、鮭延秀綱ら1千名の守備兵が頑強に抵抗し、上泉泰綱を討ち取られるなど多数の被害を出した。大軍による力攻めという短期攻略戦法を用いながら戦闘は長引き、9月29日に関ヶ原敗報がもたらされるまで、上杉軍は約20日間も長谷堂城で足止めを受け、ついに攻略できなかったのじゃ。(長谷堂城の戦い)。
その頃、美濃では関ヶ原本戦が行われていたのじゃ。本戦で西軍が敗れた事が奥州に伝わると、上杉軍は長谷堂城攻略を中止して撤退を開始したのじゃ。勢いに乗った最上軍と義光救援のために伊達政宗が援軍として派遣した留守政景軍が追撃してきて激戦になるが水原親憲、前田利益ら上杉勢の諸将の奮戦もあって米沢への撤退に成功したのじゃ。この撤退戦の見事さは語り草となり、わしは敵である義光や家康にも称賛され、旧日本陸軍参謀本部の日本戦史でも取り上げられているのじゃ。どうだ、すごいじゃろ。
結果として、上杉軍の最上侵攻は山形の攻略に失敗し、反撃に出た最上軍に庄内地方を奪回され、また伊達軍の福島侵攻を誘発してしもうた。景勝・兼続主従は背後を脅かす最上・伊達を屈服させ、関東へ侵攻する構想を抱いていたのじゃが、関ヶ原本戦の決着が一日でついてしまったこともあり、実現できないまま降伏へ方針を転換することとなったのじゃ。

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2008年07月24日

わしの豊臣政権時代じゃ。

天正11年(1583年)には山城守を称するようになったのじゃ。出世じゃ。天正12年(1584年)末から秀治が病に倒れると、わしは内政・外交の取次の殆どを担うようになったのじゃ。秀治の死後は単独執政を行ない、これはわしの死去まで続くことになったのじゃ。当時の上杉家臣たちは景勝を「御屋形」、わしを「旦那」と敬称し、二頭政治に近いものであったのじゃ。天正14年6月22日(1586年8月7日)、上洛の最中に主君・景勝は従四位下・左近衛権少将に昇叙転任するが、わしも従五位下に叙せられたのじゃ。
新発田重家の乱では重要な戦略地・新潟を巡り激しい攻防が続いていたのじゃが、天正11年(1583年)、当時新潟は湿地帯だった為に豪雨により上杉勢が敗北してしまったのじゃ。わしはこの対策として、川筋が定まらず本流と支流が網の目のように流れていた当時の信濃川に支流の中ノ口川を開削する(味方村誌)など、現在の新潟平野の基礎を造り、着々と新発田勢を追い詰め、天正13年11月20日(1586年1月9日)、新潟城と沼垂城から新発田勢を駆逐したのじゃ。これにより新潟湊の経済利権を失った新発田重家は急速に弱体化したのじゃ。天正15年10月13日(1587年11月13日)、わしは藤田信吉らと共に新発田城の支城の五十公野城を陥落させ、まもなく新発田城も落城し、乱は収束したのじゃ。
天正16年8月17日(1588年10月7日)には関白太政大臣豊臣秀吉から豊臣の氏を授けられ、豊臣兼続として改めて山城守の口宣案を賜たのじゃ。天正17年(1589年)の佐渡征伐に景勝と共に従軍。その功により、平定後に佐渡の支配を命じられたのじゃ。天正18年(1590年)の小田原征伐でも景勝に従い、松山城を守備していた城代の山田直安以下金子家基・難波田憲次・若林氏らを降し、先兵として八王子城を攻略するなど関東諸城を攻略。文禄元年(1592年)からの朝鮮出兵においても景勝と共に参陣して武功を挙げたのじゃ。上杉領となった庄内地方においても大宝寺城の改修や、一揆の制圧などを取り仕切ったのじゃ。
安定した豊臣政権の中で、わしは戦乱で疲弊した越後を立て直そうと奔走したのじゃ。わしは農民に新しい田畑の開墾を奨励した。越後の平野部はわしの時代に新田開発が進み、現在に至る米所の礎となった。さらには産業を育成し、商業の発展に努めたのじゃ。その元となったのが青苧(あおそ)と呼ばれる衣料用繊維で、越後に自生していたカラムシという植物から取れる青苧は、木綿が普及していなかった当時、衣服の材料として貴重としたものであったのじゃ。この青苧を増産させ、織り上げた布を京で売り捌き、莫大な利益を上げたのじゃ。わしの施策は越後に謙信の時代に劣らぬ繁栄をもたらしたのじゃ。
天正23年(1595年)1月、景勝が秀吉より越後・佐渡の金山支配を任せられると、わしはその代官となったのじゃ。
慶長3年(1598年)、秀吉の命令で景勝が越後から会津120万石に加増移封された際、わしには出羽米沢に6万石(寄騎を含めると30万石)の所領が与えられたのじゃ。この国替えで、上杉領は最上領によって会津・置賜地方と庄内地方に分断された。わしは、この分断された領国の連絡路として、朝日軍道と呼ばれる連絡路を整備したのじゃ。朝日連峰の尾根筋を縦走する険しい山道で、関ヶ原の合戦後はほぼ廃道となったのじゃ。
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2008年07月23日

わしの直江家相続じゃ。

上杉謙信公急死後の天正6年(1578年)の御館の乱では、おやじ兼豊と共に景勝方に付いたのじゃ。 天正8年(1580年)8月から、景勝への取次役など側近としての活動が資料で確認できるよ。8月15日(9月23日)には景勝印判状の奏者をつとめていたのじゃ。 天正9年(1581年)に、景勝の側近である直江信綱と山崎秀仙が、毛利秀広に殺害される事件が起きてしもうたのじゃ。わしは景勝の命により、直江景綱の娘で信綱の妻であった船の婿養子(船にとっては再婚)となり、跡取りのない直江家を継いで越後与板城主となる。以後、上杉家は兼続と狩野秀治の2人の執政体制に入ったのじゃ。
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2008年07月22日

わしの謙信時代じゃ。

通説ではな、わしは永禄3年(1560年)に樋口兼豊の長男として、越後の坂戸城下(現在の新潟県南魚沼市じゃ)に生まれたと言う説と、湯沢町に樋口姓が多い事から越後湯沢で生まれたと言う説があるのじゃが、わしはどっちでもええ。永禄7年(1564年)に上田長尾家当主の長尾政景が死去すると、上杉輝虎(かの謙信公じゃ。)の養子となった上杉景勝(当時の名乗りは長尾顕景)に従って春日山城に入り、そのまま景勝の小姓・近習として近侍したとされておるのじゃ。しかしながら、これを立証する信憑性のある史料は極めて少ないのじゃ。

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2008年07月21日

わしの概要じゃ。よく読んどけ。

わしはな、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将で上杉氏の家老じゃった。
おやじは長尾政景に仕えた樋口兼豊で、木曾義仲の重臣・樋口兼光の末裔といわれておるのじゃ。母は上杉家重臣・直江景綱の妹じゃが、信州の豪族・泉重歳の娘という説もあるのじゃ。おやじ兼豊の身分については米沢藩の記録書『古代士籍』『上田士籍』では長尾政景家老、上田執事との記載がある一方で、『藩翰譜』によれば兼豊は薪炭吏だったというが、わしは知らん。
わしは、仙桃院(謙信の実姉で景勝の母)の推薦で幼い頃から景勝に近侍していたといわれるが、当時の様子を窺える史料は皆無なのじゃ。晩年に諱を重光と改めるが、通例では初名で「兼続」と呼ばれたのじゃ。
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2008年07月20日

ブログ開設いたした。

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拙者のブログを開設いたした。みなの衆、よろしくお頼み申す。
タグ:直江 兼続
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